14年前の東日本大震災を体験したキャバクラ嬢〜中学時代のいじめのトラウマで精神的に病んでいたリカ。当時は小学生のナミは「いろいろ経験した今の私なら被災を見ることができる」〜キャバクラ嬢と3・11(続)
「震災前は大丈夫だったんですが、震災後は体調崩して、お酒を飲むとますます体調が悪くなったんです」

仙台市若林区荒浜の荒浜小学校(11月3月22日、撮影:渋井哲也)*直接関係ありません
震災時、家族の無事を願った
宮城県仙台市国分町のキャバクラで働くリカ(仮、当時34)はこう話す。私は彼女と東日本大震災の10日後、東北随一の繁華街である国分町で出会った。
震災における避難所取材では、昼間がメインだということもあり、若い世代の話を聞くことが出来ないでいた。そのため、若い世代の話を聞くにはやはり夜の街ではないかと思い、国分町に出かけた。

南三陸町志津川(11年4月2日、撮影:渋井哲也)*直接関係ありません
すると、若者たちが集まっていた。店がオープンしていないところも多かったが、この時期はラーメン屋や居酒屋を中心に開いていた。そんな中で、徐々にキャバクラも開き始めていたのだ。そのとき、何人かのキャバクラ嬢と出会った。その中でも私はリカさんのことが忘れられないでいた。
もともと水産加工の工場で働いていた
リカさんは宮城県沿岸部出身だった。震災当日、仙台市内にいたリカさんは家族の無事を願った。家は浸水したが、家族は無事だったという。しかし、家族の他、友人たちはどうだったのかと気になって聞いて見ると、「友達がいないんです」との答えだった。
そもそも仙台に来る前は何をしていたのか。
「沿岸部の水産加工の工場で働いていたんです。めかぶや牡蠣のパック詰めとかしていましたね」
どうして辞めたのだろうか。
「23歳のとき、宮城県では国分町の次に飲み屋さんが多いと言われているところのスナックに友達が飲みに行ったんです。そのときに、『君、働かない?』と友達が言われたんです。でも、その友達は昼の仕事しかやりたくないという子でした。『じゃあ、友達、誰か紹介して』って言われたというので、私に話が回って来たんです。

南三陸町志津川。震災瓦礫を燃やしているところ(11年4月2日、撮影:渋井哲也)*直接関係ありません
『(水商売を)やらない?』って言われて、ちょうどそのとき、夜(の仕事を)やってみたいと思っていたんです。キャバクラのテレビとかのイメージですかね。あと、ちょうど失恋したばかりのときで、家に1人でいたくないという感じで、人がいっぱいいるところなら寂しくないかな?と思って。
でも知らない世界だから。コネがないと怖いなとは思っていたんです。そのとき、友達が声をかけられた、っていうから、ちょうどいいかな?って思って。昼の仕事は給料9万しかもらえなかったんですよ。みっちり働いて、さらにサービス残業的な感じで働いても月9万。実家だったので、食費と光熱費がかからないからよかったんですけど。水産加工の仕事って、けっこう、きたいなというかハードというか。汚れるんです。そういうのも嫌だったんです」
女の子にいじめられていたので、トラウマがあった
どうして嫌な職場で働いていたのだろうか
「仕事がないわけじゃないんですけど、地元の仕事で。
あと、ちょっとトラウマ的なものがあるんです。若い女の子と一緒に働くのが嫌だったんです。だから工場系ならおばさんしかいないじゃないですか。男の人かおばさんしかいないからいいかな?と思って。接客とかはなんか嫌だったんです。表ではなく、裏方の仕事がよくて」
トラウマとは何のことを言っているのだろうか。
「女の子にいじめられたんです。小学校高学年から中学校くらいまで。高校はほとんど行ってないんです。中学はちゃんと出ましたが、高校のときは精神的に病んでしまって。一年生のとき、3分2は行っていたんですが、2、3年生のときはほとんど行ってないんです。なんか、先生が『特別な事情だから』といって、卒業させてくれたんですよ。精神的に病んでいる、という事情なんですけど」
この話が、友達に津波の被害にあった人がいるかを聞いたときに、「友達がいないんです」につながる話だった。

南三陸町歌津の板津大橋(11年4月2日、撮影:渋井哲也)*直接関係ありません